hack my life: 思想: 2007年2月アーカイブ

思想: 2007年2月アーカイブ

ふと昔のブックマークを見返していて思った事をが有ります。

はてなのid:naoyaさんの「僕やはてながPerlを選ぶ理由」というエントリ。

理由としてあげているのは此方。

僕の物作りの過程においては、コンパイラにやたらと怒られたり、変数の型を気にしたり、変数に入れるオブジェクトが何者だったりするかをいちいち意識しなければならない静的型付けの言語は性に合わなかったんですね。一方で簡単なことは簡単に、難しいことでもそれなりにできる Perl という言語は、僕のやり方に合っていたし、なんとなく"Hackしている"という気分にも浸ることができたんです。

最近Javaでコーディングする機会があって、僕もこの点を強く感じました。
ファイルの文字出力するのに何段階か経て出力ストリーム取得する手法や、明示的なキャストが必要だったりと何かと手間のかかる言語なのです。確かにセキュアでは有るかもしれません。理屈も納得は行きます。コンパイラは親切です。

でも、正直うっとうしいんですよね。
コンパイラは口うるさいし(僕はJavaのコンパイラを「コンパイラおばさん」とよんでいます。)
そもそもちょっとデバッグするのにいちいちコンパイルすのは非常に面倒です。

一度スクリプト言語を使うと、その軽快さと手軽さがやみつきになってしまうんですよね。
それが多少リスキーで有ろうとも、プログラムを壊しても、また直せば良いんですから。

もう一点共感する点がこちら。

僕がプログラミング言語を使わずに考え出したソフトウェアというのは、綺麗に設計されているようで、実際に作り出してみるとまったくその通りにいかない。あそこがおかしい、ここがおかしい。紙の上の設計に後戻りしては設計書の間違いを訂正するのです。

基本的にプログラムを書く際には、要件を纏めて、概要設計して、詳細設計に落として、プログラミング。
という流れがベストプラクティスと言われています。実際やると全然そんな事はなくて、SIベンダーに身を置いていると、やれ仕様違いだ、やれ仕様変更だなんて事が日常茶飯事です。

あげくの果てに、「設計で謳っている機能は技術的に不可能な事がわかりました・・」なんて事もありました。
一体なんの為の設計なのやら。
・・・だいたい、仕様変更ってなんだよ。だたの改良じゃないのか?って最近思うんです。

でも違うんですよね。
設計書ってそもそも、「良いプログラムを書く」為のベストプラクティスではないんですよ。

設計書は、


  • 顧客を納得させて仕様変更として納得させるため

  • 成果物として出す必要があるから

  • 最低限の品質を保証するため


という目的で有るんでしょう。

そして一番重要なのは、

  • 1からプログラムを書けない人でも戦力にできるように

って所ですかね。
そもそも設計する人間が普通にプログラムやらせてもらえないんですよね。
SI業界ではプログラマの地位はかなり低くて、言われたものを作るだけのコード書き(Coder)なんて怪しげな位置付けにされています。そもそもSEですって言っている人の70%位が其れこそほんと怪しいですけどね。

同じIT業界でも、色々なパラダイムがあって、パラダイムが違えば、そこには違ったルールがある。
少なくとも、SIとか、オープン系というパラダイムでは、優れたソフトウェアを作るより、顧客から文句のでないプログラムこそが最重要なんです。そりゃレベルも上がらないわな。

どちらかというと、政治的なやりとりに重きがおかれ、プロマネ > プロジェクトリーダー > SE > プログラマ > テスタというヒエラルキーはどうやってもひっくり返らないんでしょうね。

このパラダイムに居る限り・・・ですけどね。

まぁ、最近のSI系オープン系のパラダイムにはそれはそれで面白い潮流があるんですが、それはまた別のお話になるんで、そのうち。

最近SNSよりもBlogの方に思ったことを書くことが多くなってきました。
特別SNSがダメだと言っているわけではなくて、SNSはSNSなりの魅力があるのだけれど。

今年の初めに友人とSNSとBlogの違いについて話した事があります。
決定的に違うと感じるのは、SNSに日記を書いているときは、どうしても読む人の顔が浮かんでしまうのです。

SNS自体は学生時代のたまり場であったり、気の合う仲間同士の集まりであって、
それはそれで居心地が良かったりもするのですが、近い存在で有るからこそ、書けない事、書きづらいことができてしまう。

特定少数(あるいは多数)に向けてエントリをしている訳で、
思っていることをストレートに書くのはなかなか難しい。
コメントが付けづらいかな?と気を回してしまったりする。

一方Blogは誰が読むかはわからない。
不特定多数に向けて書いている訳で、それはほとんど読者を意識していないにかぎりなく近い。

読んでくれる人は今考えると頭に浮かぶのだけど、その人達を意識してかいているかというと全然そんな事にはならないんですね。SNSだと最新日記にエントリがあると、何となくクリックしてしまって、読んだのはよいけれど、コメントが書けない、でも足跡が残ってしまうから、コメントしておかないと。。などど変に気を遣ったりもする。
はっきりいってそんなコメント要らないんだけれど、どうしても考えてしまう。

Blogは意識的に見に来ない限りなかなか目を通さないだろうし、足跡なんてないから(やろうと思えば多少できますけど)読者が非常に見えづらい感じがしています。
意外と此処が私は好きで、勝手気ままに思ったことを書けている気がします。

勿論なんでも書けるか?というとそんな事はないのだけれど、此処は自分の世界であって、よほどの事がない限り、あれこれ言われる事がないんですよね。
アルファブロガーともなるとそうも言っていられないのでしょうけれど、そこにはまた別の世界があって、SNSとはやはり違うのだろうなぁ・・・と想像しています。

SNSは悪く言ってしまえば馴れ合いな所があるので、そこが逆にストレスになってしまうのでしょうか?
そこそこ親しい位の人達が、自分の世界に入り込んでくると言うのはそれはそれでなかなかしんどいことなんではないかな?とも思う訳です。

怪物を狩るものは、その課程において自らが怪物にならぬように意識せねばならない。深淵を覗き込む時、深淵もまた此方を覗き込んでいるのだ。

たしかそう言ったのはニーチェだ。

今日ふとこの言葉を思い出して、いささか憮然とした気持ちになった。

いつもと同じ毎日を過ごしていて、それはそれで貴重な事かもしれないけれど、時折自分が何者であるのか思い出していないと、足下ががらがらと崩れてしまう気がする。
だから、常に足下に広がる世界を意識しているのだけれど、時折無性に解らなくなる。

そんな時、決まって思うのは、自分はこの世界の何処にも存在していないんじゃないか?って事。
それが怖いからこそ、自分らしさを確認して、自分の存在を認識して、妙に安心したりするんだけれど・・。

でも、

自分が自分であるアイデンティティみたいなモノがはっきりと認識出来ない時はどうすれば良いのでしょう?
なんてふと思った。

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