先週末から風邪を引き込んでしまい、暫く更新が途絶えてしました。
週末はやることが山積みだったのですが、不本意ながら病床に伏していました。
さて、
病床に伏している間、あまりに暇なので、本を読んだり考え事ばかりしていました。
お題は「帝王学」です。
帝王学というと、マキャベリの「君主論」辺りがバイブルになるんですけど、
何遍読んでも、頭では理解出来ても感情で納得いかないことはあるものです。
なぜそんな事を思い至ったかというと、
先週、自分より20も年上の人と話していて、色々話を聞いているうちに、「どんな組織であれ、政治闘争ってのはあるんだなぁ」と感じたんです。
僕個人は、あまり政治に興味がない(「自民、民主どちらでも良い」とかいう意味ではありません)、というより、好んで近寄りたくないと普段から考えているんですが、全員が全員そういう訳にはいかないのも事実です。
僕自身にしても、「みんなが幸せになれるなら、其れが一番いい」と思っていたって、自分の周りに反対勢力が居ること位認識しているし、どちらかというと控えめな平和主義者なので、降りかかる火の粉は払わなければならないしお互いの主張が相反するときには、出来るだけ公正にではあれども戦わなければばらない時もあるかなって位の覚悟は有ります。
とはいえ、自分の周りの政治闘争には全然関わるつもりはなくて、はっきり言ってしまえば、自分が指向する結果がでるならば、どんな体制だって良いんです。「詰まるところ、政治は結果でしかないのだ」と思うわけです。
どれだけ素晴らしいカリスマ指導者だろうと、成果が出せなければ、単なる扇動政治家でしか無いわけだし、愚鈍であっても、補佐する人間が優秀で結果として、素晴らしい成果があがるなら、それで良い。(あるいは、自身に能力がなくとも、優秀な人間を見抜く目があったなんて評価も成り立つかも)
正直言ってしまえば、権力闘争なんてご免だし、この世の中理想通りに行かないことも多々あるでしょうけど、それでも僕は周りの人たちを悪く思いたくない。
なんてのは20代の小僧の台詞でしかないのかもしれませんが・・・
カテゴリ: 思想
ベストプラクティス
ふと昔のブックマークを見返していて思った事をが有ります。
はてなのid:naoyaさんの「僕やはてながPerlを選ぶ理由」というエントリ。
理由としてあげているのは此方。
僕の物作りの過程においては、コンパイラにやたらと怒られたり、変数の型を気にしたり、変数に入れるオブジェクトが何者だったりするかをいちいち意識しなければならない静的型付けの言語は性に合わなかったんですね。一方で簡単なことは簡単に、難しいことでもそれなりにできる Perl という言語は、僕のやり方に合っていたし、なんとなく"Hackしている"という気分にも浸ることができたんです。最近Javaでコーディングする機会があって、僕もこの点を強く感じました。 ファイルの文字出力するのに何段階か経て出力ストリーム取得する手法や、明示的なキャストが必要だったりと何かと手間のかかる言語なのです。確かにセキュアでは有るかもしれません。理屈も納得は行きます。コンパイラは親切です。 でも、正直うっとうしいんですよね。 コンパイラは口うるさいし(僕はJavaのコンパイラを「コンパイラおばさん」とよんでいます。) そもそもちょっとデバッグするのにいちいちコンパイルすのは非常に面倒です。 一度スクリプト言語を使うと、その軽快さと手軽さがやみつきになってしまうんですよね。 それが多少リスキーで有ろうとも、プログラムを壊しても、また直せば良いんですから。 もう一点共感する点がこちら。
僕がプログラミング言語を使わずに考え出したソフトウェアというのは、綺麗に設計されているようで、実際に作り出してみるとまったくその通りにいかない。あそこがおかしい、ここがおかしい。紙の上の設計に後戻りしては設計書の間違いを訂正するのです。基本的にプログラムを書く際には、要件を纏めて、概要設計して、詳細設計に落として、プログラミング。 という流れがベストプラクティスと言われています。実際やると全然そんな事はなくて、SIベンダーに身を置いていると、やれ仕様違いだ、やれ仕様変更だなんて事が日常茶飯事です。 あげくの果てに、「設計で謳っている機能は技術的に不可能な事がわかりました・・」なんて事もありました。 一体なんの為の設計なのやら。 ・・・だいたい、仕様変更ってなんだよ。だたの改良じゃないのか?って最近思うんです。 でも違うんですよね。 設計書ってそもそも、「良いプログラムを書く」為のベストプラクティスではないんですよ。 設計書は、
- 顧客を納得させて仕様変更として納得させるため
- 成果物として出す必要があるから
- 最低限の品質を保証するため
- 1からプログラムを書けない人でも戦力にできるように
SNSとBlogの決定的違いは読者の顔が見えているか?だと思う。
最近SNSよりもBlogの方に思ったことを書くことが多くなってきました。
特別SNSがダメだと言っているわけではなくて、SNSはSNSなりの魅力があるのだけれど。
今年の初めに友人とSNSとBlogの違いについて話した事があります。
決定的に違うと感じるのは、SNSに日記を書いているときは、どうしても読む人の顔が浮かんでしまうのです。
SNS自体は学生時代のたまり場であったり、気の合う仲間同士の集まりであって、
それはそれで居心地が良かったりもするのですが、近い存在で有るからこそ、書けない事、書きづらいことができてしまう。
特定少数(あるいは多数)に向けてエントリをしている訳で、
思っていることをストレートに書くのはなかなか難しい。
コメントが付けづらいかな?と気を回してしまったりする。
一方Blogは誰が読むかはわからない。
不特定多数に向けて書いている訳で、それはほとんど読者を意識していないにかぎりなく近い。
読んでくれる人は今考えると頭に浮かぶのだけど、その人達を意識してかいているかというと全然そんな事にはならないんですね。SNSだと最新日記にエントリがあると、何となくクリックしてしまって、読んだのはよいけれど、コメントが書けない、でも足跡が残ってしまうから、コメントしておかないと。。などど変に気を遣ったりもする。
はっきりいってそんなコメント要らないんだけれど、どうしても考えてしまう。
Blogは意識的に見に来ない限りなかなか目を通さないだろうし、足跡なんてないから(やろうと思えば多少できますけど)読者が非常に見えづらい感じがしています。
意外と此処が私は好きで、勝手気ままに思ったことを書けている気がします。
勿論なんでも書けるか?というとそんな事はないのだけれど、此処は自分の世界であって、よほどの事がない限り、あれこれ言われる事がないんですよね。
アルファブロガーともなるとそうも言っていられないのでしょうけれど、そこにはまた別の世界があって、SNSとはやはり違うのだろうなぁ・・・と想像しています。
SNSは悪く言ってしまえば馴れ合いな所があるので、そこが逆にストレスになってしまうのでしょうか?
そこそこ親しい位の人達が、自分の世界に入り込んでくると言うのはそれはそれでなかなかしんどいことなんではないかな?とも思う訳です。
足下の確認
怪物を狩るものは、その課程において自らが怪物にならぬように意識せねばならない。深淵を覗き込む時、深淵もまた此方を覗き込んでいるのだ。たしかそう言ったのはニーチェだ。 今日ふとこの言葉を思い出して、いささか憮然とした気持ちになった。 いつもと同じ毎日を過ごしていて、それはそれで貴重な事かもしれないけれど、時折自分が何者であるのか思い出していないと、足下ががらがらと崩れてしまう気がする。 だから、常に足下に広がる世界を意識しているのだけれど、時折無性に解らなくなる。 そんな時、決まって思うのは、自分はこの世界の何処にも存在していないんじゃないか?って事。 それが怖いからこそ、自分らしさを確認して、自分の存在を認識して、妙に安心したりするんだけれど・・。 でも、 自分が自分であるアイデンティティみたいなモノがはっきりと認識出来ない時はどうすれば良いのでしょう? なんてふと思った。
事実と真実の違い
別の日記で一度書いた事あるんですけど、
すごく大切な事なので自分への教訓もかねてエントリします。
昔読んだ本にこんなセリフがありました。
「おいおい、そんな考え込むなよ。お前は事実よりも真実を必要としている人のことなど解る年ではないんだから・・・」
事実と真実の違い。
これを読んだとき私はまだ中学生か高校生で、とても違いが解りませんでした。
ずっと考え続け、答えがでたのは大学にはいってからでした。
理解するきっかけはFFの音楽を担当して居られる植松伸夫氏のコメントです。
ちょっと長いけど引用します。(一部略)
ここ数年自分を不幸だとおもった事はありません。その時々につらいこと哀しいこと腹立たしいことは数知れずありますよ。でも数を数えていくとそんな嫌な経験に負けないくらいの幸せも経験しているのですね。金はないけど子供は可愛い。会社を首になったけど暇ができた。離婚したけど新しい恋ができる・・・ 我々の身の上に平等に降り掛かってくるのは単なる経験なわけです。その事実自体には幸せも不幸せもない。ただ起こるだけです。それを目の前にして我々が意味付けをしているのだと思います。その意味付けがそれぞれのひとにとっての真実となっていくのではないでしょうか?なるほど。 つまり事実は常に一つ。その「事実」にたいして各人が一定の方向性(ベクトル)を与えている訳ですね。それを「真実」とよんでいるようです。この世に存在する人の数だけ「真実」は存在するわけですね。 植松氏はこうも言っています。
常に悪い方へとしか解釈しない人にとっては真実は不幸なものにしか成りえない。いつまでも辛かった事を思い返してはその「辛さ」はなくなりはしない。「辛さ」のほうが離れたくともそれにしがみ付いているのは我々の方なのですから。時には思い切って「辛さ」と縁を切り「さあ、どうにでもしてくれ!」と開き直って見るのも幸せになるための手段の一つなのかもしれません。結局、真実は唯一の事実に一人一人が意味付けをおこなった結果でしかありません。 この真実のすれ違いによって戦争やテロリズムも存在しているのかも知れません。 未だに戦争一つ辞められない人間は4000年前(書物として残っているものは大体この辺り)から精神的に成長はしていないかも知れません。 相手がどんな真実を描いているかは自分には認知できないとしても、 相手の真実を推測することは出来ます。それは「思いやり」と換言できるかも知れません。 そういった「思いやり」を身に付けていきたいな、と思います。 この辺りの認知に関しては、デカルトやゲーテの言葉を借りると面白いのですが、それは後日にとっておきます。