別の日記で一度書いた事あるんですけど、 すごく大切な事なので自分への教訓もかねてエントリします。 昔読んだ本にこんなセリフがありました。 「おいおい、そんな考え込むなよ。お前は事実よりも真実を必要としている人のことなど解る年ではないんだから・・・」 事実と真実の違い。 これを読んだとき私はまだ中学生か高校生で、とても違いが解りませんでした。 ずっと考え続け、答えがでたのは大学にはいってからでした。 理解するきっかけはFFの音楽を担当して居られる植松伸夫氏のコメントです。 ちょっと長いけど引用します。(一部略)
ここ数年自分を不幸だとおもった事はありません。その時々につらいこと哀しいこと腹立たしいことは数知れずありますよ。でも数を数えていくとそんな嫌な経験に負けないくらいの幸せも経験しているのですね。金はないけど子供は可愛い。会社を首になったけど暇ができた。離婚したけど新しい恋ができる・・・  我々の身の上に平等に降り掛かってくるのは単なる経験なわけです。その事実自体には幸せも不幸せもない。ただ起こるだけです。それを目の前にして我々が意味付けをしているのだと思います。その意味付けがそれぞれのひとにとっての真実となっていくのではないでしょうか?
なるほど。 つまり事実は常に一つ。その「事実」にたいして各人が一定の方向性(ベクトル)を与えている訳ですね。それを「真実」とよんでいるようです。この世に存在する人の数だけ「真実」は存在するわけですね。 植松氏はこうも言っています。
常に悪い方へとしか解釈しない人にとっては真実は不幸なものにしか成りえない。いつまでも辛かった事を思い返してはその「辛さ」はなくなりはしない。「辛さ」のほうが離れたくともそれにしがみ付いているのは我々の方なのですから。時には思い切って「辛さ」と縁を切り「さあ、どうにでもしてくれ!」と開き直って見るのも幸せになるための手段の一つなのかもしれません。
結局、真実は唯一の事実に一人一人が意味付けをおこなった結果でしかありません。 この真実のすれ違いによって戦争やテロリズムも存在しているのかも知れません。 未だに戦争一つ辞められない人間は4000年前(書物として残っているものは大体この辺り)から精神的に成長はしていないかも知れません。 相手がどんな真実を描いているかは自分には認知できないとしても、 相手の真実を推測することは出来ます。それは「思いやり」と換言できるかも知れません。 そういった「思いやり」を身に付けていきたいな、と思います。 この辺りの認知に関しては、デカルトやゲーテの言葉を借りると面白いのですが、それは後日にとっておきます。