自分強化月間二十五冊目の本。

「花神」を読んで以来、司馬遼太郎先生の作品を読みたくなって仕方なくて、
なんとなく買ってみたんですが、今回は小説ではありません。

随筆っていうんでしょうか、エッセイというんでしょうか。
歴史上のトピックを風土という観点から書いています。

司馬先生の随筆って文体自体は飾り気はないんですが、視点が全然違うんですよ。
もはやコレは天才性としか言い様がなくて、どうやっても真似できないものがありますね。って僕ごとき小僧が言うのもなんですが。

この本の中で特にに興味深かったのは、「中央と地方」というちょっと長めのエッセイです。

どんな時代にも、どんな土地にも、必ず中央と地方ってのは存在するんです。
今の日本でいえば、東京が中央で、他の都道府県が地方になるんでしょうけど、
日本ってのは独特なようですね。地方の人は中央に憧れをもっていて、とくに若い人がそうですけど、やっぱり東京は違うな〜。なんて思っている人が多い。

でも、世界を見渡してみると、日本以外ではあまりそういう国が見つからない。
なぜかというと、他国の中央って言うのは、やっぱり栄えているわけですが、それと同じくらいの地方都市も沢山あって、それほど差がない。中央みたいなものが身近にあるんですよ。だから、中央に盲目的にあこがれず自分の生まれた地方を愛するいわゆる郷土愛ってのが生まれるんです。

日本ではなぜそれが薄いかというと、奈良時代からの都鄙意識があるからなんです。奈良時代以前は中央っていってもそれほど煌びやかではなかったんですけど、そのころ大陸、とくに中国あたりの都という概念をそのまま持ってきて、人工的な都をつくるんです。自然発生的ではないんですね。だから、それまでの、畑があって田んぼがあってという土地柄とは全然違うものが出来上がる。
圧倒的に華やかなんです。
だからその華やかさに圧倒されて、やっぱり中央は違う。って思ってしまうんですね。

ずっとそれが続いているかといいますと、そうでもない。江戸時代辺りでいっぺん都鄙意識は崩れているんです。
江戸時代ってのは藩制で、そう簡単に人が移動は出来ないんですよ。地方都市が沢山うまれて、そのに独自の文化が生まれる。だからこそ、郷土愛がねずくんです。

何故それが消失してしまったのかというと、明治維新のせいなんです。

本文から抜粋すると、

 明治維新で、いままでの三百数十年の地方文化もダメになりました。このことは、いっぺん奈良時代の都鄙の構造にもどったわけです。明治維新成立の時には、なるほど江戸期の文化は、なお目の前にあるんですけれども、文明化開花というつよい政治的・文化的価値の前に、当時の流行語でいえば「旧弊」という無価値も同然のものになりました。  明治の東京というのは、世界史からみても異常な都市でした。単なる首都というものではなく、欧米文明の吸引装置であり、伝播装置を兼ねていました。

という訳です。
非常に興味深いですね。

こうして読んでみると、司馬遼太郎先生はただの小説家ではありませんね。
観察眼が素晴らしく、切り口が非常に鋭いんですよ。しかもどの破片も司馬遼太郎先生以外が切ったら、全然違うものになってしまうだろうなぁ。と思ってしまいます。



『歴史と風土』
司馬 遼太郎  著
文春文庫  ¥500 (税込み)

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このページは、hackmylifeが2006年3月29日 22:41に書いたブログ記事です。

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